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木屋町通り周辺の幕末スポット② [◆京都・幕末めぐり]

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【坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地】

遭難の地、というか、もう単刀直入に殺害された近江屋ってことなんですけど、まあ「殺害跡地」とは物騒だから書けないよねぇ。
近江屋は土佐藩の出入り醤油商人で、龍馬は酢屋からここに移りました。
龍馬は大政奉還の成った1ヵ月後、誕生日に死亡。劇的ですよね。中岡は襲撃の2日後に死亡。

最近【JIN-仁-】で、大河ドラマ「風林火山」で共演した内野聖陽市川亀治郎が、龍馬と中岡慎太郎役で再共演して、鼻血モノだったけど、本当にこの二人の暗殺されるくだりは劇的すぎる。
中岡慎太郎も生き延びていたら、幕末一のミステリーの下手人が明治になって知れたかもしれない。

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【本間 精一郎遭難地】

本間 精一郎は、越後国出身の勤皇の志士。江戸や京で学び、尊皇攘夷の思想に目覚める。
あの、清河八郎とも親交があり、実は彼よりも早く京都で倒幕論を説いていたらしい。知りませんでした。
策士策に溺れる、清河八郎と同じく、彼も自分を過大評価していたのか周りの志士から疎まれ始め、岡田以蔵らに暗殺されたそうです。
越後出身という点で、主な薩長土肥の志士たちとは意見が異なっていたのかもしれません。彼自身に一貫した思想が無かったのかもしれませんね。

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↑自動販売機が景観を邪魔している

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【日本映画発祥の地】

>>抜粋

当地は明治三十年(一八九七),実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑(いなばた)勝(かつ)太郎(たろう)(一八六二~一九四九)が日本で初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である。 (中略)雪の降る夜、京都電燈株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地)で国内初の映画の試写実験に成功した。

私は自他共に認める映画好きですが、京都だったんですねぇ。映画検定の問題に出てきそうw

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【土佐藩邸跡と土佐稲荷】

当時は高瀬川に面して門が開かれ、土佐橋が架かっていたそうです。
まあ~土佐藩といえば言わずもがな、坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎、後藤象二郎、藩主は山内容堂ですね。

土佐稲荷、岬神社は藩邸内に鎮守社として祀られたもので、参拝する町人の為に藩邸内の通りぬけが許されていたという。信仰に対しては凄い大らかだなぁ。
当時の藩邸って、治外法権的なエリアだったのに。
当時の人々の、ヒステリックな信仰ではなく、日常生活の一部、っていう感じが凄く伝わる。
祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と「石栄神(せきえいのかみ)」の二柱。
農耕・商売・土木・金工などの繁栄、火難除けなど災厄除けの神様とのこと。

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ホテルオークラ周辺の幕末スポット [◆京都・幕末めぐり]

【一之船周辺】

高瀬川を中心に木屋町通りや河原町通りは幕末スポットの宝庫。運搬や交通手段として利用されていました。
この日は【一乃船入】周辺に、着物をきたボランティアガイドの方がいました。ゆっくり話したかったなぁ。

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【幾松・桂小五郎の邸宅跡】



桂小五郎(のちの木戸孝允)と三本木の芸妓(舞妓)、幾松(のちの松子夫人)の寓居跡。
二棟が国の登録有形文化財に登録されています。

今は幾松という旅館料亭『幾松』になっているので、利用しないと中は見学できません!くうう![ふらふら]
今も、幾松の部屋は限りなくも当時に近い状態で保存されているとあり、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などが仕掛けられているという。

オシドリ夫婦で知られる二人のエピソードには色々胸を打たれるものがあります。
明治になったとはいえ、そもそも桂は元武士、元の身分差を超えての結婚は当時としてはなかなか無かったのではないでしょうか。

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↑いつかこの先に!

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【長州藩邸跡】



蛤御門の変で会津・薩摩に敗れた跡、自ら藩邸に放火して、京都中焼けたというから、京都民にとっては何とも迷惑なもの。
藩邸跡は明治維新後に官有となり、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた、とあります。


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↑桂小五郎の像。ハンサムですね

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木屋町通りの幕末スポット① [◆京都・幕末めぐり]

■幕末史跡案内図

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【武市瑞山寓居跡】

武市半平太、の方が通りがいいかもしれませんね。
土佐の下士として生まれながら、聡明で土佐勤皇党を結成した人物。
京都から土佐に帰国命令が出た後、吉田東洋殺害の嫌疑で投獄、処刑されました。
まあ有名なので割愛しますw。
それにしても、1862年9月ごろ京都で活動開始、1863年3月京都出立しているし、その間も一度土佐に帰国したりしているので、わずか半年足らずしか京都にいなかったちうことですね

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金茶寮という会席料理屋さんになっています

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↑かすれちゃって読めません!


【吉村寅太郎寓居跡】

 >>看板抜粋

 

「土佐藩の庄屋に生まれ、武市半平太に剣術を学び尊攘思想に傾倒、土佐勤皇党に加盟。坂本龍馬らと脱藩し上京するが、寺田屋事件で捕らえられ土佐に送還され投獄される。保釈後、再度上洛して武市の寓居「丹虎」の隣に居を構える。最終的には八月十八日の政変で幕府軍の攻撃を受け、九月二十七日大和国吉野にて戦死。」

私はそもそもこの人のことはよく知りませんが、大和国吉野、現在の奈良県で幕府に反旗を翻す「天誅組の変」を起こしたのは知ってる。結局烏合の衆である彼らはそこで壊滅することになるんですよね。
面白いのは、後に海援隊に入る池内蔵太が、この天誅組に加わって生き延びたという事。しかしせっかく生き延びたのに、船の難破で命を落としてしまうから残念です。
坂本龍馬も、彼を相当買っていたようで、非常に残念がっていたという事です。

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【加賀藩邸跡】

>>簡略した抜粋
江戸時代初期に初めて置かれる。藩主は代々前田家。
江戸時代外様の最大の大名だったが、幕末では活躍する事はあまりなかった。
五代綱紀は文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深かった

とあります。んー確かに幕末は影が薄いねぇ。
一応、慶喜を支持はしたけど、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、新政府の北陸鎮撫軍に服従したし。
他の大勢の藩と同じく、藩内で意見が割れていたといいます。

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