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東西・親子丼対決 [◆京都・幕末めぐり]

ひさご

以前にも、やはりこの界隈を通った後に立ち寄った蕎麦やさん。
こころなしかきれいになってるような・・・?
その時はきちんと(笑)、茶そばをいただいたのですが、実はここは「親子丼」が有名なんですよね。
前は迷って思わず蕎麦やだから蕎麦を注文しちゃったのだけど、今回こそは!

つーことで食べました親子丼。
もしかしたら、今まで食べたなかで一番美味しいかもしれない。
さすが京都というか、濃すぎないタレに山椒が爽やかな後味を残して。

東京の親子丼では築地場外、『南原亭』『炙り親子丼』が最近ではベストなんだけど、そちらが一杯でがっつりと鼻と舌に残る炙った肉の旨味が持ち味なら、ひさごの方は上品な甘みのしっかりとした出汁による割り下で何杯もいけそう。
(割り下に関しては勝手に推測w)

んー、甲乙つけがたい。気分やコンディションによって、食べたい!と思うものは違うからなぁ。
ということでどちらも◎

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↑うまいよ!


タグ:親子丼
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霊山歴史館 [◆京都・幕末めぐり]

【霊山歴史館】


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↑ひたすら上る!

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↑維新の道は長く険しい・・・

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↑来訪時の企画展

幕末好きなら一度は足を運ぶべき。
ようやっと来れました!近藤局長~~![グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)]

要するに見所多すぎて語り尽くせないんだけと、まあピックアップすると。。。

★徳川昭武の写真
パリ・マルセイユ視察に行ったご一行の写真は、それはそれは昭武どのがお小さくて。フランス人がどう思ったかと。
お顔はきりっとしてました。昔の撮影は時間がかかるので、若干疲れ気味でしたが。

★龍馬を切った刀

実際に龍馬を斬った一人とされる、桂早之助の小太刀が飾られていました。
赤っぽく錆びてる!刀身についた血は拭ったようにみえても、鉄分が付着するので錆びやすいと、多摩の歴史館で聞いた事があります。
龍馬暗殺のミステリーであまり聞かれない名ですよね。
彼は下手人本命の佐々木只三郎や自白した今井信郎らと同じく「見廻り組」です。
鞘は原田左之助の物だ、と証言した伊東甲子太郎らは偽証なので置いといて、今井信郎が「やった」という自白もけっこう曖昧です。彼は見張り役をしていた、という説が濃厚。
桂が斬ったことに関しては、佐々木只三郎から暗殺成功をほのめかした和歌が彼に贈られているので、信憑性がありそうです。
『新撰組始末記』にも、実行人は渡部篤、桂の両名だろうと書かれています。佐々木が独断で命令したのか、黒幕がいたのかは、佐々木も桂も戊辰戦争で戦死してしまったので真相はわかりませんねー。

新選組始末記 (中公文庫)

新選組始末記 (中公文庫)

  • 作者: 子母沢 寛
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 文庫


★近藤勇の鎖帷子

総重量6キロもある鎖帷子。池田屋で切り込んだ時に着用していた可能性が高いって!
まあその後は、局長自ら新撰組で有名な「死に番」もするわけもないし、後は蛤御門の変くらいしか出張る機会はなかったから、着用の機会は殆どなかったでしょう。

★新撰組大幟
新選組隊士・島田魁が箱館まで守って身に着けていたという幟。
彼は晩年西本願寺の守衛をしてそこで生涯を終えたのですが、死ぬ時まで新撰組の「誠の腕章」を忍ばせていたという。
ほんっとに、ファン泣かせの人です!
最近は彼の取りまとめた和歌集により、土方歳三の辞世の句が、実は「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に照かと」ではないかというニュースで話題になりましたね。
そういえば、元々辞世の句といわれていた「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」は、どういう経緯で辞世の句と伝わっていたのだろう?調べねば!!

と、つぶさに見学すればたっぷり2時間は必要です。ただ、3Dはちょっと必要ないような気も…。
1階にある幕末をさらっとおさらいする大型映像コーナーの内容は、よく出来ています。館長は若干新撰組よりなのかな?
割と薩長寄りの革命賞賛の番組などが多い中・・・凄く中立でなんだか嬉しかった。
この時代、各々が信じる正義があったんだもの。むしろ明治~昭和にかけて戦争ばかり行っていた事を考えると、あながち幕府が続いていた方がよかったのかもしれません。
ま、歴史にifは無いですけどね。


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御陵衛士の屯所跡 [◆京都・幕末めぐり]

【御陵衛士屯所跡】

  • 幕末スポット・・・新撰組を裏切った伊東甲子太郎らの僅か4ヶ月間の屯所跡


>>抜粋
ここ高台寺月真院は、慶応三年(一八六七)六月から十一月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士と証した伊東甲子太郎ら十五名が屯所とした寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動していたため「高台寺党」とも呼ばれている。(中略)
慶応三年十一月十八日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せをしていた新撰組に謀殺され、(割愛)


とまあ、これだけ読むとまるで近藤勇が一方的に殺害したように受け取れるが、実際は「新撰組の別隊」といいつつ薩摩藩に出入りしたりして、薩摩藩からも本気では相手にされなかったという、かなりピエロな一派です。そして近藤暗殺を企んでいる事を、スパイで入っていた斉藤一が近藤に伝え、逆に先手を打たれてしまうんですよね。

伊東甲子太郎は藤堂平助の肝煎りで新撰組に入隊した北辰一刀流の名手であり学問優秀な人物。近藤勇も最初は歓迎し、参謀というポストを与えたほど。
分隊という名目でうまーく脱退したわけだが、新撰組を簡単に乗っ取ろうと考えたが甘かった、というところでしょう。
近藤・土方があれほどまでに悪く言えば頑迷、よく言えば信念強固だったとは意外だったのかもしれません。
清河八郎と同じく、利発で政治や将来の見通しがたつゆえに、自分に同調する者が追従すると考えたのでしょう。
議論が達者な人は、人を言いくるめる事に長けてはいるが、信念がないと人を動かす事はできません。
有象無象の輩は騙せても、器の大きい人物は騙せませんよね。

…と、やはり穿った見方しか出来ないのですが、まあ伊東も、最初から新撰組を乗っ取るつもりはなかったのかもしれない。ただ単に、他の志士や古参の新撰組幹部ほど、何かしらの使命感が足らなかっただけの話かも。
まあ、坂本龍馬に命の危険を伝えに言って、取り入ろうとしたが足蹴にされたくらいだから、小者だったということで[たらーっ(汗)]


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↑通称ねねの道沿いにあります

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↑門からは庭が見えます。とても静かでよい佇まいです

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