神田めぐり④~玄武館道場跡 [◆ほか新撰組めぐり]
幕末期には新撰組とも深い関係のある道場。
江戸三大道場として名高い北辰一刀流、千葉周作の道場です。
新選組幹部の山南敬助や、藤堂平助、藤堂平助の誘いで客分として迎えられた伊東甲子太郎も同門。
新撰組の前身である浪士組幹部の清河八郎、幕末三舟として江戸無血開城でも活躍した山岡鉄舟、坂本龍馬も一時期この道場に通っていた。
というからして、やや興奮して到着するも、なんだか微妙な跡地にどぎまぎ。
千桜小学校の敷地内だったそうだが、その学校も廃校になっていて、昔の校門を自由に押し開けて入ることができる。学校に続いていたのだろうと思われる煉瓦道の一帯が跡地になっている。
壁の向こうには更地が広がり、ちょっとした廃墟の様相。
千桜小学校建立から100年経った記念碑が物悲しい。
(在りし日の小学校の画像を拝見したサイトはこちら)
神田めぐり①~湯島聖堂 [◆ほか新撰組めぐり]
■湯島聖堂 (昌平坂学問所)
・幕末ポイント…斎藤一、後年の職場
いわずとしれた、徳川綱吉が開いた幕府の学問所。
新撰組藩士・斎藤一は、警視庁を退職した後、『高等師範学校附属東京教育博物館』の看守の職についたといいます。
その看守の詰め所が仰高門の横!
昌平坂といえば数多の人物を輩出していますが、やはり新撰組ファンとしては、一介の剣士の晩年を想像するにあたり胸に熱いものが迫ってきます。
ただ、その次の東京女子高等師範学校でも、剣の腕をかわれて時に指南にあたったり、不逞の輩から学徒を守る門番のような存在だったと、何かで読みました(おそらく子母沢寛の新撰組三部作)。
↑まっすぐ伸びることから楷書の由来になった「楷樹」
↑立派な孔子像
↑藤原基輔(江戸中期の人物)による、唯一焼失を免れた額。貴重ですね
↑伏見宮博恭王の筆
↑中も撮影可能です
今戸神社・沖田総司終焉の地 [◆ほか新撰組めぐり]
>>慶応4年(1868年)
1月 3日 鳥羽伏見の戦い勃発。
1月10日 幕府軍、富士山艦に搭乗し江戸に撤退。沖田総司は負傷した近藤勇の隣に寝かされたと言われる。
1月14日 横浜港に投錨
1月15日 土方ら隊士39名、仮隊士24名下船し品川の釜谷へ投宿。近藤、沖田は神田和泉橋の医学所へ直行
2月28日 近藤勇、永倉・原田と袂を分かち、甲州鎮撫隊を結成
4月 2日 新撰組流山に転陣
4月 3日 新政府軍に取り囲まれ近藤勇投降
4月11日 江戸城開城
4月25日 近藤勇、板橋宿で斬首
5月30日 沖田総司、療養先の千駄ヶ谷で病死
- 神田の医学所へ収容
- (永倉新八の『同志連名記』より)官軍の江戸入りに際し、患者隊士は浅草今戸八幡に収容される。
- 沖田は新撰組幹部ゆえ、身元を隠さねばならず、松本良順の計らいで千駄ヶ谷の植木屋に匿われる。(今戸神社では「総司は松本良順宅で療養したといわれています」と記述)
境内は女性2人連れがちらほら。良縁叶うといいですね。
↑まんまる絵馬…ならぬ絵猫?
↑恋勝みくじ(レンショウと詠むのかな?)
↑納められた招き猫の前で、歌が流れている