大國魂神社~府中で新撰組ゆかりの場所 [◆日野・新撰組めぐり]
https://www.ookunitamajinja.or.jp/
新撰組の近藤勇が試衛館を引き継いだときに襲名披露で演武大会を披露した神社です。
紅白に分かれてのけっこう大がかりな野試合を行ったと記述がありますが、随身門をくぐってからの拝殿では狭いと思いますので、現在の駐車場やふるさと歴史館がある場所で行ったのでしょうか。調べが足りません。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』では、こちらの「くらやみ祭り」の際に暗闇に乗じて土方歳三が女性とまぐわった場所でもありますね。小説ではくらやみ祭りは外部から血を入れるための乱交を行う役割も持っていた祭りだ、という風に書かれていましたが、さてどうでしょう。
府中本町駅から行くと、参道を通らず本殿向かって左手の水神社の方面から脇から拝殿の敷地内に入ってしまうので、少し気持ちが削がれます。
祭神は六ノ宮まであり、一ノ宮は「小野神社」で天ノ下春命(シタハルノミコト)というニギハヤノミコトが天孫降臨した際に従事していた神だそうです。
境内には有名な「形代流し」があり形代に息を吹きかけて、自分の厄を落としたい体の箇所を撫でて境内の小川に流します(形代は自然に帰る素材です)。面白いもので、人によって本当にちぎれる箇所が違っていて、顔をなでた私は首から上が、体をまんべんなく撫でまわした連れは五体がちぎれました。
●宝物館
宝物館では幕末好きにはたまらない、由緒正しき品々がありました。
一階には巨木の樹を切り抜いた大太鼓と神輿の数々。
大太鼓に「官幣社」と書いてありますが、これは明治政府が廃仏毀釈の際に、神仏判然令(分離令)を発効し、それに伴い神格をあらためたときにできた社格だそうです。この官幣社はなかでも最高位の神社につけられた称号で、江戸(東京都)では山王日枝神社とこちらの二社しかなかったそうです。この社格は敗戦後GHQが廃止しましたが、名残としてこの社格を掲げたままにしている社もあるそうです。
大太鼓は祭りで実際に使用されており、皮にはバチで叩いた人の指の皮がめくれた後の血がついていました。
重量が何トンもあるので、天井に引き出すための専用の滑車がついています。
くらやみ祭りは7日間に及び行われ、4月30日の初日は【品川海上禊祓式(汐汲み・お浜降り)】といって、神職一行が品川沖で身を清め、汐水を神社に持ち帰るそう。その汐水は大祭期間中に潔斎として使用するそうです。江戸時代は徒歩で府中から品川まで行くわけですから、一日がかりでしょう。もしかしたら神職のみ神馬だったのかもしれませんね。
神輿は一ノ宮から順に引き出されます。房の色は特に格付けはされていないそうで、各町内で新調する際に好きな色を決めるそうです。
二階にはお宝がずらり。
・関孝和の和讃額(小説・映画「天地明察」で登場の数学者)
・比留間武治さん奉納の緋糸縅大鎧
・伊勢神宮からの御神宝御旗
・1661年奉納の太刀、家康家臣の高力高長から「烏丸」
・運慶作伝の狛犬
・徳川慶喜が揮毫した扁額
・家康奉納の獅子頭
・徳川将軍の石高、五百石の寄進状
ほかにも書ききれない程のお宝がありました。特に運慶作と伝わる狛犬は、どこか愛嬌のある表情をしていて、筋肉が丸く大きく、躍動感のあるさまが運慶らしいと感じました。
東照宮です
人形流しは自分でお祓いをしてから行います
清流に流します
見ごたえのある宝物館
こちらの随身は、古い随身に忠実に再現させたものです
日野新撰組めぐり① [◆日野・新撰組めぐり]
かなーり遅ればせながら、いつぞや、初夏の日差し強い日に日野めぐりに行ってきたレポをアップします。
①宝泉寺
宝泉寺墓地の奥まった所に井上家の墓所があり、駐車場に面して【井上源三郎之碑】が建てられています。浅黄色の恒例の旗が建っていたのですぐわかったぞ。
お寺の前には花が生けられた睡蓮鉢がたくさんあって、日本の夏だなぁ、と爽やかな気持ちに。
↑こちらはお墓ではなくて記念碑です
②大昌寺
佐藤彦五郎とその妻で土方歳三の姉、ノブが眠る佐藤家の墓所があります。
綺麗に掃除など行き届いたお寺で、立派なものでした。神妙にお手を合わせてきました。
③佐藤彦五郎 新撰組資料館
母屋の一角を資料館にした風情で、こじんまりとしながらもキレイな資料館。
ちょうど佐藤家の子孫の女性がガイドをされてました。着物を召して、清楚な雰囲気。
■土方歳三の愛用した横笛
佐藤家によく出入りしていた兄の為次郎の三味線と一緒によく吹いていたのではないか、との事。「コラボしていたのかもしれませんねぇ」と微笑んでいらっしゃいました。想像すると、なんだか粋ですねぇ
■土方と近藤の関係
【土方と近藤はマブダチのように描かれているが、実際は幼馴染ではない。むしろ師弟関係を超えるものではなかった】という説がパンフレットに載っていました。
土方は、浪士組に参加したいが名主のためそれを果たせない佐藤彦五郎の代理として参加した…ゆえに日野を背負っていたのであって、日野の名に恥じないよう自分を殺し努めていた、というのである。
もちろん近藤もそういう矜持は持っていたと思うけど、彼はそもそも『天然理心流の宗家』。歳三とは立場がまったく違うというところを考えると、肩を抱き合うほどの仲ではなくいつも一枚紙が挟まったような関係だったのかもしれない。
■佐藤彦五郎宛てに送られた刀
刀は(罪人などで)試し切りを行い、切れ味を検分したと銘を打つと価値があがったとのこと。
歳三が彦五郎に良き刀を贈ったという証拠ですね。
■佐藤彦五郎が斬った刀
血のりが錆となってうっすらとにじみ出ていた。血は拭いても錆となって浮き上がるそうで、それを研いでしまうと刀がやせるからそのままになっていたらしい。
■幕末その後
佐藤家は戊辰戦争が終わったあと、新政府の追及を恐れ2年間も離散したという。その際、大事な手紙等を分散して持ち、隠れ住みながら守ったというが、無くなったものや燃やしたものも多かったという。
たくさんのお話とともに本当の土方像が見えてきたようです
④日野宿本陣
都内唯一の「本陣」です。本陣とは大名や身分のお高い人が宿泊に利用したり、戦いの場において文字通り本陣とする場所です。
近藤ら天然理心流の一同が激しく稽古を行っていた日野本陣。
天井が若干低い気もしたが、奥の上座だけはちょっと高かった。ちょっと野暮ったく飾り気の無い雰囲気が、荒々しい男たちによく似合う気がします。しかしこじんまりとしながらも日本庭園もあり、そこはきちんと武家屋敷のような造りになっているのだと感じました。
土間の天井が格子窓になっていて、自然光が存分に入っていて明るい
大勢の賄いをするのに便利だったでしょう
↑本陣奥の間、上座です。掛け軸の跡が見えますね
↑隣接している土産屋です。京都でみかけた物もありました
日野新撰組めぐり② [◆日野・新撰組めぐり]
⑤井上源三郎資料館
土蔵を改装した資料館がオープン。
源さんの兄、松五郎の「文久三年御上洛御供旅記録」、歳三書状、源三郎書状、近藤勇が松五郎に贈った名刀「大和守源秀国」などの資料が展示されています。
■源さんは強かった説
6番隊のほとんどが鳥羽伏見の戦いで最後まで戦ったそうです
ガイドさんは、源さんが地味でそれほど強くなかったら、それほどまでに一致団結しているだろうか?と推測されてました。確かになぁと思いました。剣よりも心が強かったのかもしれないですね。間違いなく、人徳はあったのでしょう。
■源さんの甥の話
源さんの甥っ子・泰助は隊士とは認められませんでしたが、どうしてもということで源さんの江戸出張の帰りについてきてしまったそうです
若干11歳の彼、鳥羽伏見の戦いで源さんが死んだ後、首だけは戦場に残すまいと「首を切るのを手伝って欲しい」と周りに呼びかけたそうです。
そして首をもって逃げ帰る途中、あまりに重たく、実家の近くにあるお寺と同じ名前の『ごんぎょうじ』の門前に埋めてきたそうです。
置かれている状況や時代が違うとはいえ、現代の11歳とこんなにも違うものかと、深く考えてしまいました。とにかく気合入ってます
井上家現当主の奥様とその話をしたところ、その当時の話を直に聞いたご先祖が、「源さんの首が埋まってるのは「ごんぎょうじ」と言っていた」のを子孫たちは「ぼけている」と勘違いしていたそうです。「家の近くの寺と間違えてるよ」って…。だから京都の伏見近くの寺を探さなかったそうです。
ちなみに現在確認してもその当時死体がごろごろあって、まとめて掘り起こして埋葬したそうで、源さんの遺体は不明になってしまったとのこと。
甥っ子が利発すぎたあまりの残念な結果ですね
源さんのどらやき、もっちりして美味しかったです
↑蔵だけにかっこいいですねー
⑥唐辛子地蔵
資料館の前の道を日野宿本陣方面へ向かうと、道すがらすぐ見つかります。眼の病に効くという唐辛子地蔵があり、新撰組の面々も、ここへお参りしたといわれています。
⑦八坂神社
日野宿の鎮守で、近藤勇らが奉納した剣術額がありますが、閉ざされていて中の神輿しか見えませんでした…敷地は広いのに残念ですねぇ…。
⑧新撰組のふるさと資料館
■相馬主計の贈友談話と近藤最後の手紙の封筒がこの時のメインでした。館内には歴史を語るボランティアのかたが数人いて、親切に教えてくださいました。「新撰組を好きな方は私より詳しいから…」なんて謙遜してましたが、いえいえ新しい発見がありましたよ~~
■相馬主計のその後
実は相馬主計は「鳥取藩の知事」に推挙されたそうです。
相馬は函館降伏後、新島に流されてそこで「贈友談話」を書き、結婚し、妻と江戸に戻りました。その際に打診されたといいますが、断ったそうです。
しかし江戸でひっそりと暮らしていたが、妻に「他言無用」と言い残し突然自害したそうです。
一説には元新撰組の肩書きは周りの冷遇を誘い、板ばさみになり苦労したとも、実家に迷惑をかけたくないからけじめをつけたとも言われています。
私は彼が魂を抜かれた状態になってしまったんじゃないかと思います
新しい世の中が、まるで戦争でもなかったかのように前向きに生きている様が、彼にとっては生きにくかったのかもしれないし。
真相はどうであれ、新撰組最後の隊長の末期として涙を誘う最後ではあります
↑道標さえも誠!
↑館内のボランティアの方と歴史漫談して楽しかったです
⑨タクシーで土方歳三資料館
こちらには2回目の訪問です。歳三お手植えの松など、よく知られていることは今回ここでは省き、新しい発見のみ記しました。館長の土方陽子さんと、その娘の土方愛さんがいらっしゃって、他の人の合間を縫って少しお話させていただきました。ちなみに愛さんの著書、【子孫がかたる新撰組】を購入の際、サインをもらっちゃいました
■榎本武明が書いた扁額
歳三の甥が、後年歳三がどんな人間だったか知りたくなり、当時の歳三をよく知る方を訪ね回ったそうです。その時、榎本武明は「部屋に入ってきたときに清らかな風が吹いたような気持ちにさせる男だ」と評し、一筆書いたそうです。
■鎖帷子
土方の鎖帷子がありました。槍で突かれたのか穴が開いていて、戦闘の激しさを感じさせます。
そのほかあの有名な兼定やその写し、鉢がね、石田散薬の箱、腕章(全国で13個しかない)などが飾られていました。みな食い入るように真剣に観察していました。
↑立て直されて綺麗になりました。前の建物も味がありましたが…
↑入り口に佇む胸像。威厳を感じさせます
⑩とうかんの森
墓に向かう途中、とうかんの森と呼ばれる小さな森があります。小さいのに森と呼んでいいのかわかりませんが、昔はもっと広かった森の一画ということでいいのでしょう。
ムクやカヤがうっそうと茂り、その奥に稲荷様が祭られています
その一部だけ時が止まったような佇まいで、稲荷の前にぽっかりあいた木々の間の空間に入ると、はるか頭上で嵐のような木の葉ずれがゴウゴウと鳴っている。まるでタイムスリップしたみたい
「中の稲荷」は古くから土方一族が祀ってきたもので、宝永5年(1708)の記録にも残されている。
「とうかん」という呼称は稲荷の音読み、あるいは十家の音読みに由来するものということです。
⑪土方の墓
石田寺に土方の墓があります。最近はマナーがあまりなく、供え物を放置して帰る人が多いので、もしかしたら近い将来一般拝観禁止になってしまうかもしれませんそのような注意書きがありました。供え物はおまいりが終わったら持ち帰る物なのに、それを知らない人が多いのでしょうね。
ここに訪れるのは2度目ですが、何度も訪れたような気分になりました。
参拝者のための休憩所もあり、明るく大きな、落ち着いた寺です
⑫高幡不動尊
帰りにモノレールで高幡不動尊まで行きました。もう本堂も土産屋も開運そばもしまっていたけれど、2回ほど来たことがあるので、とりあえず境内だけ散策して帰ってきました。夕焼けがキレイで、しみじみとしちゃいました
↑万願寺駅にあったPOPです
↑夕暮れに佇む歳三。何を想っているのでしょうか…
↑銅像の斜め後ろに石田散薬の原料が生息してましたw
↑絵馬です。気合入れて書かないと、歳三に叱られそうです
↑土産屋さんのシャッターです。さすが!
↑土方資料館に売っていますw
↑歳三キューピー!限定品です♪
↑この日の戦利品。読み応えはばっちり!