半ズボンをはいた播磨屋 [小説・本]
ユダヤと日本 謎の古代史 [小説・本]
お気に入り度 ★★★☆☆
■日本神道とユダヤ神教の共通点に目から鱗
ユダヤ教のラビと、日本人大学教授との問答形式で語られた本。紛い物のオカルト本でもなく、こじつけの解説本でもなく、あくまで客観的に、日本とユダヤの神道の共通点、歴史的にみた関わりを論じている。
特に目から鱗だったのは、シルクロードの形成は、ローマを追われたユダヤ人が発端だったということ。ユダヤ人は絹織物技術に秀で、それを生業としたいた商人が多く、かつてアメリカの機織物財閥系はユダヤ起業家が独占していたという。商売をしながら東へ東へと、果ては中国にまでコミューンを作っていたというのである!
なるほど、私達日本人はシルクロードというと、どうしても中国を連想しがちだが、道は広大な中国を通っているだけであって、中国発祥ではなかったのである。日本には中国からあらゆるものが流入してきたので、そのような錯覚をしてしまうのだ。
ほかに記憶に残った特徴的な共通点を挙げると…
・神聖な場所に入る前に、きれいな水で穢れを払うという行為をするのは、日本とユダヤだけである。その水自体をも汚さない、ということを含めて。
・また、塩で穢れを祓うという概念はラビが知る限り日本とユダヤだけが持つ。
・菊の文様が嘆きの壁に彫られている。
・六芒星が伊勢神宮の外宮近くの石灯籠に刻まれている。日本では籠目と呼ばれているこの紋様は、ユダヤでも魔除けとして使われる。
・失われた十士族が日本に着いたとはっきりは言いがたいが、祇園祭で見られる山車の模様には、出エジプト記をなぞらえた絵柄の織物が使われている。
・ヤッホー=ヤハウェ、高天原=タガーマハラン(ノアの箱舟がアララト山に乗り上げた周辺地域の名)、えいさ=イサ、みかど=ミカドル(高貴な人)など、聖なるものをさす言葉に日本語とヘブライ語の発音が似ている。
他にも例をあげればきりがありません。古代ヘブライ語とひらがなは形も発音もそっくりだそうです。
jこの本をきっかけに、「日ユ同祖論」に興味を持ち、いくつか書籍も読みました。
飛鳥時代の渡来系である秦氏が、ユダヤ人だったという説もあります。
古代ロマンは真相はわからないからこそ、非常に人を惹きつけますね。現代に残ったアイテムをかき集めても推測するしかありませんから。きっと皇室や神宮に所蔵されていて、公開されない秘匿の宝物などにヒントは眠っているのでしょう。
とにかく好奇心をかきたてること間違いなしです。
天地明察 [小説・本]
◎改めて、保科正之は偉大だと思う
読後感の爽やかさ!
歴史物であり、数学と天文学という専門的な分野を描きながら、借り物の専門用語を並べずに読者にその世界の内実を解りやすく説明しているのが凄い。
たまにくだけた「くそ重い刀」などの表現をするが、それが時代小説専門小説家とちょっと違う印象を与えている。ちょっと違和感も感じるが、そんなに嫌じゃない。
挫折を味わった男のサクセスストーリーでもあるし、何十年もの暦をめぐる人々の壮大なドラマでもあり、暦対決というエンターテイメント性もある。
思うに暦というのは、古代文明からずっと、人界を治める手段の最たるものですよね。
誰もが知識をもち解明できるものではないから、人々を畏怖させ崇敬させる最たるものでもある。
関孝和との関係が興奮しますね。
互いに顔を知らないまま、何十年も算学問題のやり取りで会話している。
そこにある崇敬とある種の情愛が育まれる様が面白い。
そういった人間に出会えた事が羨ましくもある。
私などblogで間違った事を書いただけで顔から火が出るほど恥ずかしいのに、算学勝負として間違った設問を名前を堂々と出して張り出してしまった状況や、暦対決で月蝕を外してしまった状況、想像するにあまりあります。
えんとの関係も甘酸っぱく、人の縁(えにし)の不思議を感じさせます。
渋川晴海、恥ずかしながら知りませんでした。
暦改編の裏にこんな壮大なドラマがあったなんて。
暦は平安時代からずっと、陰陽宿が形を変えて脈々と引き継いでいると思っていたので、まさか囲碁打ちで算学の達人が関わっていると知らず、本当に驚きました。
というか、またしても保科正之の時代なのだなぁ。
対比して描かれる山鹿素行の暦に対する暗愚ぶりが、私にとっては斬新だった。
忠臣蔵や幕末になると彼の名前がたびたび登場し、武士道を語る男たちの大義名分として彼の思想が引き合いに出され、武士道の賢者として謳われる事が多いからだ。全く別の視点から捉えた彼の姿は、人間の多面性をはっと気がつかされる。
時間がずれる事を察知し、そのずれを修正できる人がいるのに、武士の立場をわきまえなければ、というただそれだけで、口出ししてはならないというのは、今では考えられない事。
水戸の尊王思想もそうだけど、尊王思想というのは、私の思い描く理想の状態とはどうも違うらしい。天皇家に尊敬を抱きつつ、足りないところを補ってあげるというのが何がいけないのか。
幕府が公家たちから政権を奪ってしまったから、更に彼らの領分に手出しすると彼らの立つ瀬がなくなり天皇を蔑ろにしてしまう、という危惧を持つのはわかる。
そこを重々わかっているからこそ根回しを慎重に行っていたのに、そこを慮ることもなく、歩み寄ろうともせず、ただひたすら権力を翳すしか能がない公家たちの政治手腕の愚かさにも呆れてしまう。
人間って言うのは、とても小さなこだわりにしがみついて、自分の生きる意味を保とうとしているのだな・・・としみじみ思ってしまった。
もし、渋川晴海が挫折したままだったら、その後同等の知識と知恵と情熱を持って改暦に取り組む若者がいつ現れただろうか。
怜悧な若者の才能を無駄に潰されてしまう可能性があったという、この恐怖。
私を含め、全く庶民たちはどの時代も、このような知られざる先達の労苦を知らず、のほほんと暮らしているのだなぁと、頭が下がる思いです。
人間社会は、顔も知らないどこの誰かが作ってくれた食物を食べ、加工品を使い、着物を選び、そうやって支えあっているのだなと、感謝の念が自然に湧き出る小説でした。
更に森羅万象、知らない間に命を支えている湧き水や湖や生き物たちなど、渺漠の世界に思いを馳せるわけだけれど、暦というのは、そういった自然への崇敬さえ奮い立たせるものなのだと、ぽつんと地上で蠢いている自分を、天から見下ろしている気分になりました。
いやはや、清清しく凛とした、すばらしい小説です。