岡山歴史めぐり(2019年9月) [静岡県]
よく赤味噌と八丁味噌を混同する方がいますが、八丁味噌は大豆と塩だけを使い、豆を麹化して発酵させます。一般的な赤味噌よりもしょっぱくないです。また、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村(現在の八帖町)の味噌蔵で造っていたから八丁味噌と呼ばれた歴史があります。
こちらに詳しく解説されているので興味があればどうぞ。
https://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/10/post-2608.html
ガイドさんについて見学します。見学者は私と連れと、アメリカ人の一人だけ。すごく渋いところを観光にくるなぁと、聞いたらAmerica人で日本の主要都市をすべて回ってるんだそうな。
早川久衛門さんは代々受け継がれて、今は19代目だそうです。
施設の中は古い作業風景などが再現されて見所たっぷりですが、ガイドさんの言葉も聞かなくてはならないので忙しい(笑)。
本物の樽からは液が染み出してきており、醤油のよう。百年以上経過している樽もありました。木材ってすばらしい道具ですね。見学の最後に八丁味噌の試飲と、味噌田楽の試食をさせてくれます。
駅下車するとなんとオカザえもんがお出迎え
弁慶と義経ではありません。豊臣秀吉がカクキュー近くの矢作橋の上でカクキューから盗んだ菰にくるまってるときに武士と出会い、それを機に出世したという言い伝えを看板にしたとのこと。初耳の伝説。
麹菌がまだ住んでいそうですね。昔から基本の造り方は変わっていないそうです
引退した巨大樽
併設のレストランで頂いた味噌煮込みうどん。鳥天が入ってました!
■新田白山神社
1566年に徳川家康が戦勝祈願のために群馬県から勧請したという神社。祭神は源氏の血を引く新田義重公。大志を強く抱いていたことが窺える、と由緒にも書いてありましたが、まさに証拠といえるのではないでしょうか。境内には岡崎城に生えていたものを、この神社のためにうつしてきたといわれる大楠もありました。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/okazakijo/tenji
家康殿ー!めざせ天守閣!ラグビー前に立ち寄ったのでジャパンジャージが目立つ目立つ。
カクキューから向かうと、岡崎城公園の敷地内手前に「家康産湯の井戸」がありますので忘れずに。
天主は五階建てになっており、各階に展示物があります。日本刀や鎧もあり、武具マニアにはたまらないのじゃないかしら。五階の黒壁と黒瓦が引き締まってかっこいい城です。
天主五階からの眺め
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0029.html
現在の社殿は、徳川家光が岡崎城主・本多忠利に命じて寛永13年(1636)に改築したものだそう。
権現造の社殿(本殿・幣殿・拝殿)、透塀、御供所、随身門、神橋、鳥居が重要文化財に指定されています。徳川宗家の恒孝さんが奉納したさざれ石と石碑が建立されています!
静岡幕末めぐり(2019年9月) [静岡県]
※コロナ禍なので、去年ラグビーW杯ついでに観光した静岡の史跡巡りを遅ればせながら記します。
静岡駅を下車すると竹千代の像がお出迎え。
その大通りには成人した竹千代(徳川家康)像がドンっ。
明治維新時に謹慎していた徳川慶喜が、水戸からここに身柄を移されました。明治二十年になると東海道線が通ることになり、その喧噪を嫌った慶喜は転居します。
その後料亭となり、伊藤博文なども利用しました。現在、見学のみの利用はできません。
●西郷隆盛と山岡鉄舟の会見の場
富士宮の神社めぐり [静岡県]
富士宮市内の様々な小さな社をめぐりました。
■神田宮
由来等不明です。神田、という名前なので昔奉納用の米を造る田んぼだったのかもしれません。
駐車場と使用されている左右のスペースが、そうだったのではと想起させます。
■蔵屋敷稲荷神社
祭神…宇迦之御魂神
<由来・看板より>
この神社の創建については不詳であるが、もとは大宮城内の蔵屋敷の神として祀られていたが、城の解体とともに蔵屋敷の地名共々に残ったものと思われる。
以来神田区の氏神として又鎮守として祭られてきたものであるが、そこに改めて文化六年の大晦日、日本稲荷総本山愛染寺より正一位稲荷大明神を勧請したものである~当社の社殿については弘化三年に再建されている。
その前については不詳、現在の社殿は大正十二年に再建されたものである。
■長屋門
<由来・看板より>
江戸時代後期の安政4年(1857)、江戸幕府の側用人であった本郷泰固は、武蔵、上総、遠江のほか現富士市の川成島も所領地とする大名となり、川成島天王社前(現在の新富士駅南口付近)に長屋門のある陣屋を築き本拠としました。
この屋敷は明治以後、地元用人の和田家に引き継がれたといい、その後昭和14~15年(1939~1940)にかけて、この屋敷の大部分が取り壊されましたが、長屋門は、和田家の親戚筋の遠藤家が譲り受けた。
遠藤家は当時、現在地において料亭「高しま家」を大々的に営み、長屋門は、この料亭の門として移築された。
平成15年(2003)富士宮市は、旧高しま家跡地を取得し、平成20年(2008年)、長屋門を古民家再生事業として修理復元した。
こちらで食事をしようと思っていたら、閉店と書いてあり非常にがっかりしました。
※今は別のレストランが借り受けて営業しているようです。⇒sakuya
↑裏手から見るとこのようになっています
■棹地稲荷神社
日本に一つしかないだろうといわれている、測量を意味する名前の神社とのこと。
明治維新の頃、土地測量が行われた際に使用した棹を奉納したことから、棹地稲荷と呼ばれるようになったそうです。
あくまで祭神は他の稲荷神社と同じ宇迦之御魂神。お稲荷さんで通っていますが、狐が守っているのはこの神様です。