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海援隊・京都支部の「酢屋」 [◆京都・幕末めぐり]

【酢屋】

  • 幕末ポイント・・・坂本龍馬の「海援隊」拠点の場所 



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一階は木工品の店舗となっていて、お椀やお盆などが販売されています。
とても質のいい品ばかりで、訪れたときも品物に魅せられた方が商談していました。
2階の「ギャラリー龍馬」は龍馬が実際に使用していた部屋で、レジで見学料を支払うと、しおり等を渡してくれます。

ちょうど2階に上がるときに、オーナーらしき年配の方が到着し、説明をかってでてくれました。

この二階で、ピストルの試し撃ちをしたという。酢屋の目の前は高瀬川の舟入で、川に向けて撃った、といわれています。
すごい音が轟いたので、外にいた人々はたいそう驚いたそう(当たり前だけど)。なんとも目立つ行為ですよね。
酢屋投宿当時はそれほど注意人物として狙われていなかったとはいえ、幕吏等に目をつけられたら大変なのに。ただでさえ、誰もが持っているわけでもない短筒(ピストル)なんてぶっ放すなんて凄い騒ぎになりそう。龍馬の豪胆な性格の一端を表わす出来事ですね。

興味深いのは、海援隊士・陸援隊士らが起こした事件【天満屋事件】の時も、隊士たちはここ【酢屋】に一度集まってから向かったということ。初めて知りました。
海援隊士らは龍馬暗殺の首謀者が紀州藩士・三浦休太郎だと思い、天満屋に投宿していた彼を襲い、かねてから暗殺の危険がわかっていた三浦の警護を依頼されていた新撰組と戦いました。
よくドラマなどではここで、新撰組隊士が三浦の腰抜けぶりに呆れるシーンが描かれます。
紀州藩は徳川御三家の一つなので、「俺たちが守っているもの=徳川は何なんだ」と、だんだん失望していくんですよね[ふらふら]
それは司馬遼太郎の小説の影響色濃く、子母沢寛の【新撰組始末記】にはそういう件はなく、事実だけが淡々と書かれています[わーい(嬉しい顔)][あせあせ(飛び散る汗)]
紀州藩は海援隊いろは丸の沈没の賠償金を支払うはめになり、「船を沈むる その償ひは、金を取らずに国を取る」という歌まで流行らせられたので、紀州藩は相当に龍馬を恨んでいたのではないか、という理由から紀州藩犯行説が相当高かった、と本著にはあります。

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外には、看板(木札と呼ぶのか?)があり、海援隊士らの名前が刻まれている。
この看板は何のためかというと後世に酢屋を讃えるためのものらしく、私の知っている隊士だけ抜粋すると、

  • 海援隊隊長…坂本龍馬直柔先生
  • 隊士…陸奥陽之助(陸奥宗則)、沢村惚之丞、池内蔵太、近藤長次郎
  • 海援隊を自宅に隠匿志士の書策を授け幕吏及び新撰組見回組等の刺客の危機より逃らしめも隊士一同の身邊守護に努力したる任侠の士
  • 大黒町年寄 材木商 酢屋嘉兵衛
  • 岩倉具視公「賜邸祝宴記」一節

とあります。完全に幕府側は悪者ですね[もうやだ~(悲しい顔)]。歴史は勝者が正しくなる、といういい例かもしれません。

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「池田屋」の今 [◆京都・幕末めぐり]

【池田屋】

  • 幕末ポイント・・・いわずとしれた池田屋事変のあった場所



以前来たときはテナント募集中でした。
今は「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」になっています。
チェーン店かぁ…当時の池田屋を緻密に再現してもらいたいなぁ…せめて料亭だったらいいのになぁ…などと、要望ばかり募ってしまう。
パチンコ店だった時より全然ましですけどね。

二階を見ると新撰組の絵が[exclamation]昼間なのでよく撮れませんでした。
次はここで飲んでみたい。

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瑞泉寺 [◆京都・幕末めぐり]

【瑞泉寺】



豊臣秀次とその一族を弔うために1611年建立。
秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処され、その場所に塚が築かれたが、鴨川の氾濫などで荒廃したため角倉了以が墓石を発掘して堂宇を建立した、というのが簡単な延暦。
豊臣秀次は秀吉の甥で、秀吉に乞われて養子になったものの、淀君に子供「秀頼」が生まれると疎んじられて、一族郎党皆殺しにされてしまった人物。
適当に関白にさせられて、用がなくなったらポイ、ポストだけならまだしも、命もポイ、酷い話です。

と、ここまでは俗に伝わっている説だがしかし、寺でいただいた「延暦記」には、この事件、謎が多く真相は判明していないという。
秀次は高野山で切腹(はらわたを掛け軸に投げつける無念腹[exclamation]をして、辺りは血だらけだったという)、一族と子女が公開処刑されたが、「連座」したとして何故か「園城寺」という寺が廃絶になり、僧侶全員が追放になったという。しかもその廃絶命令は秀吉の死後一日前に急に取り消されたというから、これまた不思議。[がく~(落胆した顔)]
秀吉以外の謀略を勘繰ってしまいますねぇ。
ただ単に、秀次が秀頼誕生に慌てふためいて、焦って謀反を企ててしまったのかも知れませんけど。

敷地内には、死者の悟りを開き霊を浄土に導く『引導地蔵』があり、どれだけ秀次らの霊を静めたかったか、弔う気持ちが強く伝わってくるようです。もしかしたらそれだけ、この地では秀次一族の処刑が人々の同情をかうものとして、伝わっていたのかもしれません。

こじんまりとした、手入れの行き届いたきれいな寺でした。
小さな休憩スペースに座って眺めていると、移された本能寺とは違って、まだ無念の魂がそこら辺を漂っているような気がした。

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↑瑞泉寺延暦立て札

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↑引導地蔵尊

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↑供養塔

>>抜粋
経文の最後に「伏して祈る。願わくばこの塔の功徳を以って、この世の全ての人々が苦しみから平等に救われますように!」とあり、秀次一族の供養の為に建てられた物、と思われます

とあります。伏して祈る、というくだりが心情に訴えて生々しい。
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