SSブログ

平成31年大相撲初場所 1月14日初日@国技館 [★相撲観戦]

2019-01-18T02:02:13.jpg

2019-01-18T02:02:13.jpg

2019-01-18T02:02:13.jpg

↑幕の内弁当の内容が若干変更

2019-01-18T02:02:13.jpg

↑お得感のある寿司「大関」盛り


稀勢の里が引退するかもしれないぞと、のぞんだ初日の相撲観戦。

御嶽海という一度優勝も経験し、失うものは何もないノリノリの若手があてられたことで嫌な予感はしていました。


4日目の引退会見で何とも言えない寂しさが去来。
録画していた相撲中継を見たら、案の定現役力士たちによる稀勢の里とのエピソードがたくさん語られており、中でも豊ノ島の話が泣けました。

場所前に琴奨菊・豊ノ島と3人で稽古したとき、とても充実した稽古がとれたと。その時稀勢の里は「相撲ってこんなに楽しいんですね、やめられないですね」と言っていたそうです。

そんな豊ノ島には前夜、電話で引退する報告があり、そこで「(琴奨菊と豊ノ島の)二人の背中を追ってここまでやってきました」と語っていたそうです。
この日、若隆景に気迫の相撲で勝った豊ノ島の姿に胸が熱くなりました。
稀勢の里は中卒で入門したから、琴奨菊と豊ノ島はほぼ同期ですが年上なんですよね。


一時期付け人をしていた竜電。幕内で稀勢の里と取組が出来なかったので、取りたかったと。きっっと、自分が(稀勢の里と割が組まれるまで)強くなるのを待っていてほしかったと思ったのでしょうね。勝って恩返しがしたかったとも語っていました。
どのエピソードも涙を誘わずにはいられません。


初優勝の喜びで祝賀会に訪れたのも2年前。
鶴竜がのらりくらりと休場と出場を繰り返しているのに比べたら、何となく休場するタイミングを間違えた気がしなくもありません。
途中休場を繰り返すより、潔く連続優勝直後に一年間ぐらい休んでしまえばよかった。彼が愚直にファンのことを思えば思うほど、心と体がばらばらになり裏目に出てしまった気もします。
祝賀会、小学校での優勝報告会、靖国神社、野見宿禰神社での奉納土俵、kitte場所でのインタビュー…。ずっと追いかけていました。相撲にまつわる神事や行事がこんなにもあるのかと、稀勢の里を通じて発見したことも沢山ありました。相撲の楽しみを与えてくれてありがとうと言いたいです。
おそらく世間では「最弱の横綱」というイメージが就いてしまったと思いますが、一時期は横綱に肩を並べる「最強の大関」だったのです。比べるのも失礼だとは思いますが、平成27年からの鶴竜と比べるとそれがわかると思います。 終わり一番勝って引退して欲しかった気もしますが、そもそも勝ったら引退しませんしね…。残念です。
《鶴竜力三郎》
平成27年1月 西横綱1 10勝5敗
平成27年3月 東横綱2 0勝1敗14休
平成27年5月 東横綱2 0勝0敗15休
平成27年7月 東横綱2 12勝3敗 準優勝 (6回目)
平成27年9月 西横綱1 12勝3敗 優勝 (2回目)
平成27年11月 東横綱1 9勝6敗
平成28年1月 東横綱2 10勝5敗
平成28年3月 東横綱2 10勝5敗
平成28年5月 西横綱1 11勝4敗
平成28年7月 西横綱1 2勝2敗11休
平成28年9月 東横綱2 10勝5敗
平成28年11月 西横綱1 14勝1敗
《稀勢の里》
平成27年1月 東大関1 11勝4敗 準優勝 (7回目)
平成27年3月 東大関1 9勝6敗
平成27年5月 東大関1 11勝4敗 準優勝 (8回目)
平成27年7月 東大関1 10勝5敗
平成27年9月 西大関1 11勝4敗
平成27年11月 西大関1 10勝5敗
平成28年1月 東大関1 9勝6敗
平成28年3月 西大関1 13勝2敗 準優勝 (9回目)
平成28年5月 東大関1 13勝2敗 準優勝 (10回目)
平成28年7月 東大関1 12勝3敗 準優勝 (11回目)
平成28年9月 東大関1 10勝5敗
平成28年11月 西大関1 12勝3敗 準優勝(12回目)
●相撲博物館「江戸時代後期の大相撲」
2019-01-18T02:02:13.jpg
幕末の大型力士の特集もありました。
大空武左衛門(おおぞら・ぶざえもん 1796~1832)
肥後国上益城郡矢田ノ床田所村の生まれで、36歳で死去。
内気な性格で取組は一度も行わず、見せ物として土俵入りだけ行ったといいます。七尺五寸=227センチもあり、「七尺五寸」は大男の代名詞ともなった力士です。 通称「牛またぎ」といって、牛をひょいとまたぐ絵がありました(歌川豊国画)。
生月鯨太左衛門(いけづき・げいたざえもん 1827~1850)
23歳で死去。肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士で身長が227cm、体重が169kgもあったそうな。平戸藩生月島は江戸時代中期より捕鯨で有名となり、文政年間には日本一の捕鯨量を誇っていた。それにちなみ四股名をつけられました。
東京都江東区にある富岡八幡宮に彼の力士手形足形碑があります。彼も見世物要素が強く、土俵入りだけを行うことが多かったようで、気は優しいですが女遊びを覚えてしまい、梅毒で死んでしまったという説があります。また脚気だったという説もあり、これだけの巨体、当時の食生活を考えると獣肉を食さないで維持するのは大変だったのかもしれません。
白真弓肥太右衛門(しらまゆみ・ひだえもん 1829年~明治元年1868年12月22日)
39歳で死去。岐阜県白川村の前頭筆頭。この方、黒船ペリー来航の際、米俵を軽々運んで外国人を驚かせた有名人。
浮世絵には、力士らがアメリカ人が俵の上に乗っているのをそのまま担ぐ姿も。
日本人の平均身長が150センチにも満たない時代に、よくこれだけの巨漢が現れたものです。見世物というと差別的な印象を受けますが、むしろ反対で、彼らはいるだけで庶民のヒーローだったのでしょう。しかし皆が皆短命だったことが気になりますね。
●国技館情報
・バラエティちゃんこ
ちゃんこは陸奥部屋のみそとしょうゆを合わせたものでした。ほどよくこくがあって、日本人の好きな基本の味です。肉が大きめでした。
2019-01-18T02:02:13.jpg
2019-01-18T02:02:13.jpg
・力士フレームで写真撮影
9月場所で初お目見えでしたが、そのときは「QRで写真読みとり&撮った写真をカードに印刷」でしたが、カードにするのはやめたみたいです。
QRコードで読みとり、自分のメールアドレスに写真を送信してもらうだけのサービスになりました。時間がかかってしょうがなかったからかもしれません。
・幕内土俵入り記念撮影コーナー
2019-01-18T02:02:13.jpg
2階の向こう正面廊下に土俵入りパネルが置かれました。
力士が並んでいる土俵入り大型パネルの前に、化粧回しを印刷したパネルが。この前に立つと自分が土俵入りしているようにみえます。
ここは通行人がほとんどいないので、思う存分撮影を楽しめます(笑)。
パネルは琴奨菊と大翔丸、大栄翔らが並んでおり、琴奨菊の隣の隙間に置かれています。なぜこの人物の間?と思う人選でしたが、おそらくたまたま隙間が空いている写真を探したところ、これがちょうどよかったんでしょうね。そして解像度が凄く荒いです。近づいてみると力士の顔はブロック状に(笑)。
・式守勘太夫が式守伊之助を襲名
場内アナウンスでさらっと紹介されてました。おめでとう~。木村庄之助はまだまだ空位のままかもしれませんね。
2019-01-18T02:02:13.jpg
↑この日は入り待ち時間がとれずこの一枚のみ
2019-01-18T02:02:13.jpg
↑左は御獄海の優勝パネル

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:スポーツ

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。