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御茶ノ水・史跡めぐり [◇江戸寺社・史跡めぐり]

●行程…小栗上野介生家あと~佐々木~雁木坂~正教会

■小栗上野介生家あと

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小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
日米修好通商条約批准のため米艦で渡米した一人です。帰国後は多くの奉行を務め、フランス公使レオン・ロッシュに依頼して洋式軍隊を整備したり、横須賀製鉄所の建設などを行いました。そのため司馬遼太郎から「明治近代化の父」と評されました。
多数の功績の中で、やはり渡米の際、使節団77名率いて監察という役割を全うして、毅然とした態度でアメリカとの交渉に臨んだことが、一番評価されていると思います。
彼は幕末、薩長に恭順した徳川慶喜に対し主戦派でしたので、慶応4年(1868年)に罷免されてしまいます。
その後領地である上野国群馬郡権田村に隠遁していましたが、同年薩長軍に捕縛され、武装解除していたにも関わらず因縁をつけられ、斬首されてしまいました。
彼が明治時代長く生きていれば、そして彼が立てた作戦通り薩長と開戦していれば、今の歴史は大きく変わっていたと言われています。
■大久保彦左衛門屋敷跡
杏雲堂病院の前に「天下のご意見番」と言われた大久保彦左衛門の屋敷跡の石碑があります。正式名は「大久保忠教」で、彦左衛門は通称。時代劇では家康から「ひこざ、ひこざ」と呼ばれている記憶があります。
彼は16歳の初陣で戦功をあげ、徳川家康に仕え旗本となりました。その後、再三勧められるも大名になることを固辞し、諮問役の「天下の御意見番」として徳川三代に仕えます。
元々三河の出身、隠居後の「三河物語」の執筆者としても知られています。
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■ニコライ堂
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