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人形町・寺社めぐり [◇江戸寺社・史跡めぐり]

■水天宮

高天原に最初に出現した「天之御中主神」を主祭神に、実は安徳天皇安徳天皇の母「平徳子(建礼門院)」、一緒に入水した平清盛の正妻「二位の尼」の三柱も祀られています。
壇ノ浦の痛ましい悲劇として、また、海に沈んだ三種の神器の謎もあわせて、安徳天皇のことは心に焼き付いています。

安産守りとして有名ですが子供を持つ予定はないので、こちらにくると「天地創造の神よ、日本をお守りください」という仰々しい願いを唱えております(笑)。天之御中主神は天地創造、水を司る神ですからね。

しかし建て直された後のこの近代的な建物はちょっと好きになれない。
近代化してしまった神社としては、飯田橋の赤城神社とこちらの水天宮、虎ノ門の金比羅さんが残念ですね。
山王日枝神社くらいの樹木に囲まれていて欲しいです。
狛犬が睨みをきかしているのですが、視線の先は壁。これでは門番の役割が全うできないですね。

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■茶の木神社

ビルの一画にある小さなお社。ビルの敷地内の端っこにきれいに収まっている。
「下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷」にあったお社だと書いてありました。
街の区画は江戸時代をそのまま残していることが多いから、ここが端っこだったのかしら・・・と思って手持ちの古地図(嘉永)と現在の場所を重ね合わせると、どうも酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷になってしまう。東へ3ブロック位ずれているんですよね。

当時の地図の縮尺がいい加減だからなのか、社を茶の木ごと移動させたのかどちかなのでしょうか。しかし小さいとはいえ、周囲の自生している木には年月を経た厳かさを感じるので、周りの植え込みは当時の茶の木だと思いたい。

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>>由来看板抜粋
「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。昔この土地は徳川時代約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
社の周囲にめぐらされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、茶と茶の木の緑が見事であたっと伝えられている。その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰と言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年1回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。

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■松島神社

こちらもビルの一画に、まるで心太(ところてん)のように押し込まれたように建っております。
創建年代は不詳、なんと祀られているのは14柱!これほど多くの神が祀られているのは珍しいのではないでしょうか。神田明神など、末社として境内にたくさん社がある例はありますが並列に祀られているのは珍しい。
こちら、どうしてこういうことになったかというと詳しくはこちら↓

>>由来書抜粋
昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安産を得たと伝えられる。
~天正13年(1585)2月13日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。
~~正徳3年(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時近辺を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められてそのまま住まいを構え、町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。

掲げられた由緒書を元に計算すると、柴田家の祖先が移り住んでから128年後に神が増えていったことになりますね。
江戸の町は男性の割合が多かった理由の一つに、こういった全国から集まった大工がそのまま居着いてしまったというケースがあります。その裏付けとなる証拠が、この神社の存在だと思うと感慨深いものがありますね。
こちらは七福神の一つでもありますので、御朱印は通常と七福神の二種類ありました。さすがに14種類ではないんですね。

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■人形町の仕掛け時計
なかに人形が入っています。12:00~19:00の間、一時間ごとにからくり人形が動きます。

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■とうふの双葉


「とうふ双葉」の甘酒、200円。今時珍しく、孫をおんぶしてあやしている女将さんが、ペットボトルから紙コップにたぷんと注ぐ。この昭和っぽさがいいですね~。
甘酒は江戸では夏の飲み物。栄養補給にぴったりです。結構舌に残る甘さなので、紙コップ程度の量でも満足感があります。甘酒ソフトクリームはほのかに酒の香り。この日は珍しく暑い日でしたので、ちょうどよかったです。

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■荒汐部屋

親方猫「モル」で有名になった相撲部屋です。朝稽古は外に面した大きなガラス窓ごしに見学することができます。
夕刻訪れたので、もちろん稽古場は暗く閉ざされ、モルにも出会えませんでしたが、上階から垂れ下がる昆布のような稽古廻しが見られて面白かったです。しばらくすると呼び出しさんが一人戻ってきました。

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■清正公寺

荒汐部屋の目と鼻の先、浜町公園の脇にひっそりと、時代に取り残されたように鎮座しています。
辛うじて山門(らしきもの)が残されており、ほんの少しだけ往時を偲ぶことができます。
熊本本妙寺の別院です。熊本本妙寺は日蓮宗六条門院であり、門流とは「妙法蓮華経(法華経)を正法」とする日蓮門下の分派の呼称です。

始祖の日静が京都六条に移転させた本國寺を祖山とするので「六条門流」と呼ぶそうです。
十界本尊・開運勝利高祖日蓮大菩薩尊像・清正公大神祇尊像の三体を安置しているとのことですが、本堂は公開されていませんでした。

>>縁起(看板抜粋)
文久元年(1861)、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、加藤清正公を祀り、明治維新後には一時加藤神社と称した。明治18年仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺に委託、本妙寺別院となす。

維新後に加藤神社と称したのは、おそらく廃仏毀釈から逃れるためでしょう。 地元民の請願あってのことだと思いますが、もし寺のままだったとしても、維新を主導した薩摩の士族にとっても地元の英雄ですので、何とか残されたのではないでしょうか。 堂宇は閉ざされ、住職もいらっしゃらないようです。
すぐ隣にある子供の遊具や広場とのミスマッチが何ともいえない切なさを醸し出しています。

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