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大菩薩嶺縦走後の武田信玄・歴史めぐり [山梨県]


大菩薩嶺の下山時に、雲峰寺という寺に立ち寄りました。

実はここは大変な由緒のある寺で、なんと武田勝頼が「天目山の戦い」で敗れた時に残党が逃げ込んだ寺で、あの「風林火山」の孫氏の旗や、勝頼の書状(最近発見されたものらしい)、そして現存する日本最古の「日の丸」が置いてありました。
日の丸は、天喜4年(1056)に後冷泉天皇から源頼義に下賜された物で、頼義の三男・新羅三郎義光から武田家に代々伝わったものだそうです。武田家は、甲斐源氏といって義光を宗家とした一族なんですね。

樹齢700年の枝垂桜の古樹「峰のサクラ」もあり、4月は参拝者も多いようです。
東京・品川にある「東海寺」は住職の修業時代に関わりのあるお寺打だそうです。東海寺は徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山した由緒ある寺です。
住職の師匠はかつて教皇ヨハネ・パウロ二世が来日したときに手厚く迎えた方だそうで、追従したローマ法王の侍従たちの中には、座禅を組む方もいたそうです。カトリックの中にも教義を極めようとすると座禅(己と向き合うこと)に行きつくことがあり、座禅や瞑想を修行に取り込む方もいるそうです。


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●恵林寺
https://erinji.jp/

念願の恵林寺に行きました。雲峰寺と同じく禅宗である臨済宗の寺で、これが禅宗様とでもいうのか、檜皮葺の黒ずんだ茶色と、白い壁が質実剛健な印象を受けます。大きく、静かな寺でした。
巨大な土間を擁した庫裏は、戦時中に東京からの学童疎開150人を受け入れたこともあり、その釜は平時から僧何百人分をも一度に作ることができたとのことです。

この寺は「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」で有名な、快川国師が実際に織田信長の焼き討ちにあった三門が同じ場所に建っています。三門には快川和尚の遺偈が掲げられています。そして快川和尚がいまわの際に弟子に渡した焦げた法衣も宝物館に納められてました。法衣を預かり持ち帰った僧は秩父山中に逃れたそうです。
武田信玄公墓所は月命日のときのみ公開、庫裏から続く明王殿には、「武田不動」として有名な、武田信玄公を写したという等身大の不動明王が安置されていました。長年の煤がまとわりついたのか黒さが際立つ、どっしりとした大らかさを感じる明王様でした。武田家の墓所は月命日のみ公開とのことですが、裏手に回ることができました。背面から墓石を拝謁。
柳沢吉保の墓所は柳沢自身の強い願いにより、転封された奈良の大和郡山からこちらに移されたそうです。


宝物館と庫裏の見学であわせて、さまざまなことを知りました。
・武田24将の掛け軸の中で、裏切った小山田だけいない掛け軸が圧倒的に多いこと。江戸時代前期~後期にかけて、外されたり入れられたりする武将がいたこと。
・花菱は武田の特別な家臣のみが使う。直属の家臣ではないが、甲斐源氏の一族で武川衆の流れを組む柳沢吉保の家紋は、花菱。
・武田の槍は、先に人糞などを塗りつけて、相手を破傷風にさせる。
・赤揃えは甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌が最初。武田家遺臣を組み込んだ徳川四天王の井伊直政がそれに倣い、「井伊の赤揃え」といわれた。
・真田家は幸隆のころに武田家家臣だったが、武田家が家康に滅ぼされたことから変遷を経て織田信長→豊臣秀吉と仕える武将を変えるが、赤揃えで夏の陣に臨んだことは有名である。

徳川閉廷後、甲斐は徳川家の息のかかる者が治める領地になりましたが、家康は信玄公にまつわる自社を手厚く保護しています。かつて「三方ヶ原の戦い」で辛酸をなめたことから、信玄公への尊敬の念もあったのでしょうか。

また、宝物館には最近発見された「お江」(織田信長の妹・お市の娘、徳川秀忠の正室・崇源院)の墓石が展示されていました。発見…というかずっとあったのに気が付かなったというのが正しいのでしょう。巨大で重たい墓石はまるでエジプトのミイラのごとく、蓋を開けるのも困難な重たさを感じさせました。


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東京・芝の増上寺から疎開してきた石灯籠。徳川とのつながりを示しています


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帰りは塩山駅近くの食事処、「菊よし」さんで一杯Fotor_157873581530131.jpg


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