今戸神社・沖田総司終焉の地 [◆ほか新撰組めぐり]
■今戸神社
↑まんまる絵馬…ならぬ絵猫?
↑恋勝みくじ(レンショウと詠むのかな?)
↑納められた招き猫の前で、歌が流れている
最近は御祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神様を祀っている事から、「縁結び」のご利益あり、と持て囃されているが、新撰組ファンとしては俄かに浮上した「沖田総司終焉の地」としての方が有名かもしれない。
色々語りたいことがありますが、えっとその前にまず…凄く雑多。
ガーデニングに凝っているらしく、社の周りは猫足系のスチール椅子やら洋風の植木鉢やら、猫型の如雨露やらひしめきあっている。
拝殿の前の休憩スペースも、洋風テラスにぴったしのベンチがびっちり置いてあって、なんかこう、もう、ほんとに、神社に合わないから
萎えたわけでさ…。
気を取り直して沖田の検証を。晩年の動きのみ抜粋。
>>慶応4年(1868年)
1月 3日 鳥羽伏見の戦い勃発。
1月10日 幕府軍、富士山艦に搭乗し江戸に撤退。沖田総司は負傷した近藤勇の隣に寝かされたと言われる。
1月14日 横浜港に投錨
1月15日 土方ら隊士39名、仮隊士24名下船し品川の釜谷へ投宿。近藤、沖田は神田和泉橋の医学所へ直行
2月28日 近藤勇、永倉・原田と袂を分かち、甲州鎮撫隊を結成
4月 2日 新撰組流山に転陣
4月 3日 新政府軍に取り囲まれ近藤勇投降
4月11日 江戸城開城
4月25日 近藤勇、板橋宿で斬首
5月30日 沖田総司、療養先の千駄ヶ谷で病死
さて、この今戸へ収容されたのはいつのころか。千駄ヶ谷の植木屋で死んだことは概ね間違いないと思われるので、これが事実と仮定すると、1月14日に横浜へ到着したあと…
- 神田の医学所へ収容
- (永倉新八の『同志連名記』より)官軍の江戸入りに際し、患者隊士は浅草今戸八幡に収容される。
- 沖田は新撰組幹部ゆえ、身元を隠さねばならず、松本良順の計らいで千駄ヶ谷の植木屋に匿われる。(今戸神社では「総司は松本良順宅で療養したといわれています」と記述)
時系列に並べてみると、厳密には「終焉の地」ではないですね。
死ぬまでの数ヶ月ひっくるめて終焉と称すれば、ここもその一つ、とはいえるでしょう。
石碑の他は特に沖田に関する物はありませんでした。
本殿には巨大な二体の招き猫がぬぼーんと直立。恋みくじ、招き猫みくじまでは可愛いとしても、何故かオリジナルソングまで作成、ビデオとともに静かに流れておりました。雑多ダナァ・・・
今戸焼きは江戸名物でしたが、東京大空襲や関東大地震で職人が離れてしまい、現在は1軒しか残っていないようです。浅草寺周辺で売り出せば、プチヒットになるんじゃないでしょうか。
境内にはとても古い狛犬があり、これは今戸焼職人によって宝暦2年(1752年)に寄進され、文政5年(1822年)に再興された物だそうです。
珍しい円形の絵馬。縁と円の語呂合わせだそうです。
境内は女性2人連れがちらほら。良縁叶うといいですね。
境内は女性2人連れがちらほら。良縁叶うといいですね。
↑まんまる絵馬…ならぬ絵猫?
↑恋勝みくじ(レンショウと詠むのかな?)
↑納められた招き猫の前で、歌が流れている
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